Bouz Bar2
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MEID BAR
第三夜 ★ 魍魎の家・・・前 「あぁ、なんてこと、こんなに早く見つかるなんて・・・・。どうしよう、まだ5時前だわ。たぶん、開いてないわよねぇ・・・」 私はその店のドアの前で佇んでいた。ドアをあけるかどうか迷っていたのだ。店が始まるにはきっと早すぎる。たぶん、今は準備中。そう思ったのだ。なぜならその店はBARだったから。店の名前は「BOUZ BAR」といった。 その店は、私が勤めている会社のOLたちの間で話題になっていた。ちょっと不思議なBARらしいのだ。なんでも裏メニューを頼むと今の自分の心境にあった飲み物が出てくるらしい。で、悩みがたちどころに解決してしまうというのだ。 そんなBARなんて・・・。にわかには信じられなかった。でも・・・。 もう何人か行ったらしい。本当か嘘かは知らないが、その店に行けた人は、みな明るくなったそうだ。行けた人は、といったのは、中にはその店が見つからなかった人もいるからだ。こんな話を聞いた。 「あたしぃ、結局その店見つからなかったのよぉ〜。もう一回場所教えてくれない?」 「へぇ〜。見つからなかったんだ。あんた縁がないんじゃないの。その店って、縁のない人には見つからないのよ。あ、あんたさぁ、真剣に悩んでないんじゃない。真剣に悩んでない人も見つけることができないんだってよ〜」 「そんなことないもん、真剣に悩んでるよぉ〜。たぶん、場所を間違えているだけだって」 「そう、じゃあ教えてあげるわよ。いい、錦栄通りがあるでしょ。その東側の飲み屋街にあるの」 「東錦栄?」 「そうそう、東錦栄の南北の広い通りがあるでしょ。それを一本西側に入った通り沿いよ。古びたドアにうっすらとBOUZ BARって書いてあるのよ。ちなみに看板はないわ」 「そっか〜。じゃあ、やっぱり間違ってたわ。反対側を探してた。ところであんたは行ったの?」 「わたしぃ〜、うふふふ。行ってないの。店は見つけたんだけど。休みだった・・・・と思う。ドアがあかなかったもん」 「それって、あんたも縁がないんじゃないのぉ。あはははは・・・・」 縁がないと見つからない。あるいは入れない・・・、そんなBARがあるのだろうか。真剣に悩んでない人には見つからないBAR。もし、それが本当なら、私には見つかるはず。そして、中には入れるはず・・・・。私は、そのBARを探して行ってみることにした。でも・・・。私には門限がある。BARに行くなら、会社を早退しなければいけない。店を探す時間を考えれば、午後4時には会社を出ないといけないのだ。それも、仕方がない。それくらい許されるだろう。切羽詰まっているのだし、現状を何とかしないともう生きていけない。だから、怖くはないのだ・・・、頑張らねば・・・・。そう自分に言い聞かせ、私は入社以来初めての早退をしたのだ。 東錦栄に来たのは初めてだった。会社からはそんなに離れてはいない。電車で二駅のところだった。なので、会社の帰りにお酒を飲みに錦栄に寄る社員は多い。合コンや宴会、忘年会なども錦栄のお店で行う。もちろん、私は参加したことがない。そうした集まりはいつも欠席していたのだ。おかげで私は会社の中に友人が一人もいなかった。尤も、友人はもともと一人もいないのだが・・・。 そのBARは少し歩いているうちに見つかってしまった。どうしようか、まだ5時前だ。きっと準備中に違いない。でも、早く入れるなら、それはそれで私にとってはありがたい。うまく行けば門限までに帰ることができるかも知れないのだ。ドアを開けてみて大丈夫ならラッキーだ。閉まっているなら・・・・6時まで時間をつぶそう。6時になっても開いていなかったら・・・・。その時は・・・帰るしかない。それが限界だ。それ以上は許されないから。 私は思い切ってそのドアを引いてみた。すると、ドアは簡単にあいたのだった。 「すみません、まだ準備中なんですが。開店は6時からです」 真っ暗な店の中から陰気くさい暗い声が聞こえてきた。よく見ると、右側にL字型のカウンターが見えた。そのカウンターの奥、L字の短い方の下側がぼうっと白く光っている。その光に照らされて男の人の横顔が見えた。その男の人は、カウンターの中で座って光っている方を見つめていた。暗い中に暗い表情をした男の顔が青白く光っていた。 「あ、あの・・・、すみません、6時なんですよね・・・えっと、その、それって早くなるってことは・・・」 何を言っているんだろう、なんて図々しいことを言っているのだ、私は・・・。そんなことを言うつもりはなかったのに、勝手に口が動いてしまっていた。 「はぁ・・・・・、勝手なことを・・・・」 男は長い溜息をつきながらそういうと、立ち上がってこちらを見た。私は思わず身を引いてしまった。その男の眼が怖かったからだ。男はじっとわたしを見つめてから 「ふん・・・・そうですね。まあ、いいでしょう」 そういうと、店の灯りをつけた。真っ暗だった店の中は、ほんのりと明るくなった。どこかでスイッチを入れたのか、ジャズが流れてきた。 「あ、あの・・・申し訳ございません。やっぱり・・・その出直してきます。あの、何か見ていたのではないでしょうか」 そうなのだ。その男は、カウンターの下に置いてある画面を見ていたのだ。きっと、小型のTVが置いてあるのだろう。 「えぇ、映画を見ていたんですが・・・・いいですよ、どうせたいした映画じゃない。さぁ、どうぞ、好きな場所にお座りください」 男は冷たくそういうと、冷たい目で私を見つめてきた。 「す、すみません・・・。勝手なことを言いまして。あ、あの・・・何の映画を見ていたんですか」 「言ってもご存知ないと思います。C級・・・・いや、もっとマイナーか・・・・そんな映画ですよ」 あくまでも男の声は冷たかった。まるで突き放したような言い方だった。そんな空気が耐えられなくて、何か話さないといけないと思い、 「あ、でも、ひょっとしたら知っているかも・・・」 などとしつこく聞いてしまった。 「知りませんよ、きっと・・・・まあ、いいでしょう。オショーサンズ5(ファイブ)という映画です。くだらない作品ですよ」 「オショーサンズ・・・・オーシャンズ11(イレブン)のことじゃないですか?」 「いいえ、オショーサンズ5です。あなたの言っている映画はメジャーでしょ。私が見ていたのはマイナーです・・・・そんなことはどうでもいいのではないですか?」 その男は、カウンターに手を付くと、そういって睨んできた。眼の下にクマがある。顔色も悪い。病人のようだ。いや、生きているのかこの人は・・・。こ、怖い。ものすごく怖かった。男はさらに言った。 「時間がないのでしょ。さっさと座ったらどうです」 「あ、あぁ、はい、はい、そうです。はい・・・・」 私はあわてて座った。それは、その男の真正面の席だった。 「ご注文をどうぞ」 そう聞かれたら「裏メニューを、と答えよ」・・・確かそう聞いていた。だから 「う、裏・・・・裏メニューをお願い・・・します」 と小さな声で答えていた。 「ほう・・・、どなたに聞いたかは知りませんが、それが何かはご存知なのですか?」 「いいえ、そこまでは・・・・あの、あの・・・・」 「なんでしょう」 「この店のことは私の会社で・・・あぁ、私が働いているという意味です・・・」 「続けてください」 「あの・・・私が働いている会社で噂になっていて・・・裏メニューを頼めば悩みごとを解決してくれるって・・・あの、違うんですか?」 私は不安になった。本当にこの店でよかったのだろうか。店の造りや陰気くさいマスターらしき男は噂の通りだ。だから、間違いはないと思うのだけれど・・・・。 「裏メニューを頼むと、そこからどうなるかは聞いてないのですね?」 私はそのあたりのことは聞いてなかった。確か噂でも詳しくは流れていないはずだった。だから、私はそのままを告げた。 「は、はい。噂では詳しいことは流れていません。ただ、悩みを解決してくれる店があって、それはカウンターだけの店で陰気くさい・・・あ、ご、ごめんなさい、私・・・・」 「いいから続けてください」 その男・・・マスターなのだろう・・・は、無表情のままそう言った。 「マスターが一人でやっている店で、悩みがあるなら裏メニューを頼めばいい・・・とだけ・・・。あ、それと縁がないと見つからないという不思議な店だとも・・・・」 「そうですか。約束は守らているようですね。よろしい、実によろしい」 マスターはそういうと、ニヤリと笑った。そして 「あなたにも約束を守っていただきます。よろしいですね」 と顔を近づけてそう言った。 「ひっ・・・は、はい、守ります」 余りの恐ろしさに、その約束がなんなのかも知らないうちに私は約束してしまった。それでよかったのだろうか。私は急に不安になってきた。約束っていったい・・・。まさか、店の中は二人きりだし・・・・まさかそんな・・・・。 「大丈夫です。約束さえ守っていただければあなたに危害や禍はない。ご安心ください。そして、これが当店の裏メニューです」 そう言いながらマスターが出してきたのは、古い木札だった。 「な、なんですか、これ・・・」 「お聞きしていないようですね。よろしい。確かに約束は守らている。禍は避けられている・・・・これが、当店の裏メニューです。どうぞその木札を持って10数えてください。そうすればわかりますから」 マスターがそういうので、私はその古びた木札を手に取って数を数え始めた。1、2、3・・・そして8、9・・・まで来たときその木札に変化が起きたのだ。 「な、なんですか、これ、びりびり震えている!・・・いや!、怖い!」 私はその木札をカウンターの上に放り投げていた。 カウンターの端に飛んでいった木札を眺めて 「ほう・・・これは珍しい」 マスターはそう言った。そして木札を持ち上げ、私に見せた。 「これが今のあなた・・・いや、あなたの場合、あなたの周りの環境がこれ、ですか」 その木札にはなんと文字が書かれていたのだ。 「えっ、なんですかそれ。さっきまでは何も書かれていませんでしたよ。なに・・・気持ち悪い」 「この木札にはある呪いがかかっています。それ以来、その木札を持った者は、その木札に自分の心境や悩みを表す文字が現れるようになりました。ただし、その文字は妖怪の名前です。これを読み解くのは大変難しいものでした。そして、その文字を元にして作られるカクテルが、当店の裏メニューの飲み物なのです。あなたの場合は、あなたの心境ではなくあなたの置かれている環境のようですが・・・・」 「私の環境?。それがこの・・・・」」 「そうです。この文字・・・『もうりょう』と読みます。『魑魅魍魎』の『魍魎』です」 「もうりょう・・・それがなんで私の・・・・」 「それは後でお話ししましょう。まずは、カクテルを」 マスターはそう言うと、後ろを向いてしまった。きっと、その魍魎とかいうわけのわからないカクテルを作っているのだろう。そして後ろ向きのまま言った。 「約束を守っていただきます。この呪いの木札のことは絶対に口外しないでください。裏メニューがある、ということまでは構いませんが、それが呪いの木札である、不思議な文字が浮かぶ、ということはくれぐれも内密にしておいてください。でないと、あなたに禍が及ぶことになる。よろしいですね」 その声は、どんな恐ろしげな声よりも怖かった。 「ひっ、は、はい、もちろん、守ります。大丈夫です」 私は恐怖にひきつりながら約束をした。 カクテルができあがるまでに、私は何度も腕時計を見ていた。癖になっているのだ。すぐに時計を見てしまうのである。 「まだ5時半だ。大丈夫だ」 腕時計を見るたびに、小声で時間をつぶやいていた。 「そんなに急がなくてはいけないのですか。なんとも困った家族だ」 そう言いながらマスターは振り返った。手には妙な色をした飲み物が入ったグラスが握られていた。 「これが魍魎です。どうぞ飲んでみて下さい。色は・・・不気味ですが、味はいいですよ」 カウンターの上に置かれたカクテルは、確かに不気味な色をしていた。茶色?、黒?、いや、こげ茶か・・・濁った汚い色の液体が渦巻いているようだった。こんなのは、とても飲めない。飲んだら吐きだしそうな色なのだ。 「こ、これ、飲むんですか?。なんだか、まるで泥水のような・・・いや、もっと汚い・・・あ、すみません・・・」 「見た目は悪いが味は大丈夫です。ちなみに、ノンアルコールです。あなた、こういう店には入ったことはないのでしょう?」 「どうして・・・どうしてわかるのですか?。確かにBARとか、お酒飲むところところには入ったことはありません。でも、なぜ・・・・」 「勘です。職業上の勘です。ただそれだけです」 「そ、そういうものなのですか・・・」 きっと私の行動が挙動不審なのだろう。慣れていないのが丸わかりなのだろう。そう、慣れていないのだ。大人が行くような場所には、全く縁がないのだから。なぜなら・・・。 「早く飲んでください。あなた専用のカクテルです。あなたが飲まなければ意味がない」 マスターはそういうと、射すくめるような目つきで私を見つめたのだった。私はその目つきに圧倒され思わずカクテルに口をつけていた。 「あ、意外、おいしい・・・。これなら飲めそう」 喉が渇いていたせいもあり、私は一息で半分くらい飲んでいた。すると・・・・。 私は勝手にしゃべり始めていた。酔ってもいないのに・・・・。 「あいつらが悪いのよ。私の自由を何もかも奪って・・・。門限門限門限。今日は何をした、会社での人付き合いはどうだ、近づいてくる男はいるか、お前を悪の道に連れて行こうとする者はいるか。いいか、お前はお父さんやお母さんの言うことだけを聞いていればいいんだ。世の中にいる人間は汚れている。お前のような純粋な者は、あんなやつらと付き合っちゃいけない。仕事だけしてまっすぐ帰ってくるのだよ・・・・。 何よ何よ何よ。私だって遊びたいわよ。みんなと一緒に居酒屋に行きたいわよ。合コンだって参加してみたい。みんなとカラオケだって行きたい。会社帰りにショッピングだってしたい。ブラブラ街を歩きたい。BARにだって行ってみたい。デートだって・・・・したいわよ!。 あぁぁぁぁぁ!!!。もういやぁぁぁぁ!!!!、私の好きにさせてぇぇぇぇ!!!、いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」 私は泣きながらカウンターを両手で叩き続けていたのだった。 「ご両親は、あなたに自由な時間を与えないのですね」 マスターの声はなぜか柔らかな響きを持っていた。心地よい声だ。 「そう、そうなんです。アイツらは、私に自由なんて与えない。小学校の時もまっすぐ帰るように言われた。学校で遊んでくるなんてことは許されなかった。でも、子供だもん、みんなと遊びたかった。だから、学校に残っておしゃべりすることもあった。そすうると当然家に帰る時間が遅れるの。私の親はどうしたと思います?。学校に電話して来たわ、父親がね。うちの子供が帰ってこないけど学校は出たのかって。その間に母親は学校に迎えに来ていたの。で、先生にこう言ったわ。『うちの子は、授業が終わったら早く返して下さい。それ以外のことで学校に残る必要はありません』。信じられない。なんていう親・・・・。それ以来、母親は毎日迎えに来るようになった。当然、友達はいなくなったわ・・・・。イジメすらなかった。みんな『かわいそうに』という目で私を見ていた。そう、私はかわいそうな子。友達もいない、自由もない・・・・部活動さえ許されなかったのよ・・・・」 「反抗しなかったんですか?。中学生にもなれば誰でも反抗期があるじゃないですか」 「反抗したわよ。私だって反抗した。中学2年の時よ。学校帰り、母親が校門のところに立っていたので、別の入口から抜け出たの。一人で。中学になっても友達はいなかったから。みんな私のことは避けていた。 ・・・・そういえば、私を無理やり連れ出してくれた子がいたわ。街中にね。ゲームセンターに行ったの。でもね、その晩、こっぴどく怒られたの。ううん、怒られたのは私じゃない、友達の方。どうやって調べたのか知らないけど、私の父親はその友達の家に行って、『うちの子を不良の道に誘うな』と怒鳴りこんだの。『あなたの家の教育は間違っている、中学生の分際でゲームセンターを徘徊するとはとんだ不良娘だ。そんな不良とうちの娘は関わり合いたくない。不良がうつるからな』とすごい剣幕だったらしいの。大きな声で、近所中聞こえるように、お前の家の娘は不良だ、って叫んでいたのよ。そんなことをしたら次の日から、その友達だった子も私には声をかけなくなるわ。 私は全く知らなかった。まさか父親が怒鳴りこんだなんて・・・。私は門限に遅れて帰ったことを注意されただけだったのに、私を誘ってくれた子は、めちゃくちゃ怒られたのよ。ひどすぎる、あまりにもひどすぎる。私は全く知らなかったのよ。だから、なんで急に友達が冷たくなったのか、わからなかった。そのことを知ったのは随分あとだった。本人から聞いたのではなく、他の子から聞かされたのよ。あんたの親ってひどいわねって。 すごくショックだった。だから、反抗したの。母親の目を盗んで裏口から学校を抜け出て街に行ったわ。で、ゲームセンターをうろついたの。でも、それがいけなかった・・・・。 たまたまだったんだと思う。その時、不良に絡まれてしまったの・・・。それを助けてくれたのは、父親だった。一喝して不良を追い払ってくれたわ。そのあと父はやさしくこう言った。 『なぜお父さんの言うことが聞けないんだ。お父さんの言うことを聞いていればこんな怖い目にあわないですむんだよ。いいかい、お前はお父さんがちゃんと守っているから。だから、今日のようなことはやめておくれ。わかったね・・・』 それ以来、私は父親を信じ頼り切ってしまったの。お父さんが守ってくれる、街の中は危険、一人では危ない、周りのみんなは危険なことを知らない、かわいそうなのは私じゃなくて周りのみんな、私には守ってくれる人がいるけどみんなにはいないんだ・・・・かわいそうに・・・・。 とんだ思いこみ、勘違いだった。今思えば妙にタイミングがよすぎたのよ。なんであんなところに父が?。怪しい、絶対仕組まれている・・・そう思ったのは大学の時だった。何もかも仕組まれているの。私が自由にならないように、すべてが仕組まれているのよ」 「それ以来、まったく友達づきあいはないのですね。大学のときは困りませんでしたか」 「そりゃ・・・・困ったわよ。でも、変わり者、お嬢様、箱入り娘、父親が恋人・・・・と言われるだけで、他に何か問題があるわけではなかった。ただ孤独だっただけ」 「それが現在まで続いている、というわけですね」 「そうです。ちょっとでも門限に遅れたら・・・」 「遅れたら?」 「最近は暴れるようになりました。私に暴力を振るうわけではないのです。家にあたるんです。『なぜだ、なぜお父さんの言うことが聞けない』と叫びながら壁を殴ったり、テーブルを蹴ったり、皿を割ったり・・・・。母親は母親で『お前が不良になるからお父さんが壊れるんだ』と泣いてるばかり・・・・。私はどうすればいいのでしょうか。あの父親に対してどうすればいいのですか。いいえ、父だけじゃない。母親もそう。父親の手先となって私を監視している。こんな状況からどうやって逃げ出せばいいの?。教えてください!」 私はカウンターを叩いて思わず立ち上がっていた。正面にはマスターの悲しそうな顔があった。 ジャズの音が流れている。いったいどれくらい時間がたったろうか。ふと腕時計を見た。 「あぁ、いけない、早く帰らなきゃ。また門限に遅れてしまう」 「遅れればいいじゃないですか。自由が欲しいんでしょ」 「でも、遅れれば父親がまた家に八つ当たりを・・・・」 「させておけばいいじゃないですか。別にあなたは困らないでしょ」 困らない?。困らないだろうか?。 「でも、父が怪我をしたりしたら・・・・」 「あなたは困りますか?。明日から会社に行けなくなりますか?。明日から生きていけなくなりますか?」 父が怪我をしたら・・・いや、父が怪我をしても、母親が怪我をしても私は別に困ることはない。 「落ち着いて、座って考えてみてください。あなたは困ることがありますか?」 私は座って考え始めた。父が怪我をして困るだろうか。心配ではあるが、困ることは・・・・。 「あなたは、自分で食事が作れますか?」 「も、もちろん作れます」 「では、洗濯は?、掃除は?、お風呂は入れられる?」 「当たり前です。そんなことくらいできますよ。家庭内のことは一通りできます。というか、一切習い事は許されなくて、家庭内のことができればそれでいいんだって・・・・そうやって育ったから・・・・。家庭内のことはすべてできるんです」 「じゃあ、父親が怪我をしようが病気になろうが入院しようがくたばろうが、特に困ることはないでしょう。同じく母親がそうなってもね」 「な、何ていうことを言うんですか、失礼な。父がくたばるなんて、そんな言い方・・・」 「そんなに大事な父親なら、いうことを聞いていればいいじゃないですか」 「あっ・・・・。えっ、私・・・どうなってるんだろう。いつも両親をうっとうしいと思っているのに、いっそ死んでしまえばいいのに、と思ったこともあるのに・・・・」 「そんなものですよ。他人から言われるとムカつくんです。それで正常です。あなた至って正常だ。で、現状をどうするか、ですね」 「そう、うっとうしいからと言ってどうすることもできないんです」 「そんなことはない。簡単なことです」 「簡単?。どうやってあの父親を黙らせるんですか?。どうやってあの父親の呪縛から解放されるんですか?」 「簡単ですよ。籠の鳥は逃げてしまえばいいんです。魍魎の手から逃げ出せばいいだけです。そう、魍魎とはあなたの両親のことだ」 「私の両親が魍魎・・・それってどういうことですか?」 「魍魎とは人にとり憑いて自由を奪う妖怪です。あなたの両親はあなたにとり憑いてあなたの自由を奪っている」 「あぁ、まさにそうです。私には自由がまったくないんです。いったいどうやったら、自由が得られるんでしょうか」 「ですから、逃げ出せばいいんですよ」 「逃げ出す・・・・どうやって・・・」 「あなたは会社に行ってるじゃないですか。そのまま家に帰らなければ、それで逃げられるじゃないですか。籠は閉じられているわけではないのですよ。閉じられていると思いこんでいるだけです」 「あっ・・・あぁ、そうだ、そうですよね。確かに私は会社に行っている間は自由です。でも、それなのに・・・私は自由じゃないんです。どうして私は縛られているのでしょう」 「中学の時の事件が大きく影響しているんでしょう。ただ、それだけです。あなたも気付いているのでしょう?。先ほど、タイミングがよすぎる、と言っていたじゃないですか」 「あ、あぁぁ・・・。そうですね、あれ以来、私は外を歩くのが怖くなりました。父親か母親が一緒じゃないと怖くて歩けないんです。高校の時もそうでした。まっすぐ家に帰る毎日。街に用があるときは、両親がいつも一緒だった。大学時代もそう。会社に入ってからも・・・・家と会社の往復だけ。洋服が欲しいとき、買い物に出たいとき、いつも両親が一緒なんです。なぜなら・・・・」 「なぜなら、怖いから、でしょ。もし一人でいて誰かに絡まれたりしたら・・・・」 「そう、ついついそう思ってしまうんです。だから、怖くて・・・・」 「今日はどうだったんですか?。ここまで来るのは怖くなかったんですか?」 「今日は、決意を固めて・・・・それに、とにかくお店を探すことに夢中で・・・まだ明るかったし・・・」 「あなたは、怖いと思い込んでいるだけ・・・じゃないですか。いや、今でも何か言われているんじゃないですか?」 「えっ・・・そう・・・そう、そういえば、私がちょっとでも帰りが遅くなると・・・・残業とかで帰りが遅くなると・・・・あの時の話をします」 「中学のとき襲われかけたこと覚えてる、お父さんが助けてくれてよかったわねぇ・・・・、ですか」 「あぁ・・・・どうしてわかるんですか。そうその通りです。食事の用意を母親がしながら、私はそれを手伝って・・・・で、母は・・・・私の帰りが遅い時は必ずその話を・・・・あぁぁぁ、それ、それって・・・・」 「まあ、一種の催眠ですね。洗脳ですよ。そのおかげで、外は一人で歩けないと思ってしまっている。しかし、人間は成長するものです。頭のどこかでは、外は危険ではない、その証拠に周りの人はみんな平気で一人で外を歩いている、ということに気がついている」 「そうです。本当は一人で外を歩きたい。自由になりたい。でも家に帰らなきゃ、とついつい思ってしまう。会社でも初めは誘いがありました。でも頑なに断るうちに誰も誘ってくれなくなったんです。いいえ、強引に誘ってくれた男性がいました。でも、その男性は・・・・やっぱり彼の家に父親が怒鳴りこんで・・・・それ以来顔を合わすこともなくなりました。みんなが私を無視するんです。だから、つまらないから、余計に家に早く帰ろうと・・・」 「家に帰れば話し相手もいるし、温かい家族がいますからね」 「そうなんです。だから、結局はもとの籠に帰ってしまうんです」 「それが魍魎の手なんですよ」 マスターの顔つきが変わった。それは凶悪な顔だった・・・・。 「あなたは魍魎に取り憑かれているんです。両親という魍魎にね。どうやらこれは厄介なようだ。あなたは普段は至って正常なのに、一人で外を出歩くということに関してのみ、強い拒絶反応をしてしまう。これが魍魎である両親の手なのですよ。さて、この魍魎をあなたから追い出さないといけない。・・・どうしましょうかねぇ・・・・」 「お、追い出すって・・・」 「追い出す・・・・ちょっと大変ですが、あなたにできるでしょうか?。あなた、本当に自由が欲しいのですか」 「は、はい・・・。欲しいです。もうこんな苦しい生活は嫌なんです。私もみんなと一緒に楽しい時間を持ちたいんです」 「また、襲われるかも知れませんよ。それでもいいんですか?」 「襲われる?・・・・あぁ、襲われる・・・どうしよう、外は危険?、危険なの?、でもみんな平気で歩いているよ。会社の行き帰りに危険はないわよ。それに、みんな大丈夫だって言っている。ねぇ、どっちなの、危険なの、危険じゃないの、どっちなの・・・・あれは、あの時は、嘘だったの?、仕組まれてたの?・・・・あまりにもタイミングがよすぎるもの・・・・あぁぁぁぁ、わからないわからないわからない・・・・危険なのそうじゃないの、どっちなの、どっちなの〜」 私は泣き叫んでいた。そして、カウンターの上に泣き崩れていたのだった。 「危険じゃありません。外は安全です。危険なことはない。ルールさえ守っていれば・・・・」 その声は私の耳に心地よく響いてきた。 危険じゃない、危険じゃない、危険じゃない・・・・・・。 「なにも危険なことはありません。ルールさえ守っていれば安全なのですよ。日本は安全な国なのです。危険ではないのですよ・・・・・」 「本当に?、本当に危険じゃないんですか?」 「えぇ、危険じゃない。夜遅くまで外で遊んでいても危険じゃない。多くの人が周りにいますからね。一人ぼっちじゃないから。むしろ、一人ぼっちの今の方が、危険、ですよ・・・・・。一人ぼっちは危険です」 一人ぼっちは危険・・・今の私は危険・・・・・。 「一人ぼっちは危険・・・・あぁ、あの時も一人だったから行けなかったんだ」 「そう、一人はいけません。友達と一緒じゃないとね。一緒にいるのは両親じゃない、友達だ。あなたに必要なのは、両親じゃない。友達なのですよ」 一人はイケナイ、一人はイケナイ・・・イケナイんだ・・・・。 「友達・・・・でも、私には一人もいない・・・・昔から誰も一緒にいてくれない。誰も一緒に遊んでくれないの。誰か、私と一緒に遊んで・・・・遊んでよぉ・・・・・」 遊んで、遊んで・・・・やだ、あんたと一緒にいるとあんたのお父さんに怒られるもん・・・・お友達になって、お友達になって・・・・なってよぉ・・・・やだやだ、自分のお父さんと遊べばいいでしょ〜アッカンベー・・・・友達なんて、友達なんて・・・できないよ・・・。 「友達なんて・・・・私にはできない・・・・」 「大丈夫ですよ。今からだって友達は作れます。たくさん、たくさん・・・」 「本当?、本当に作れる?」 「作れますよ」 うそうそ。私に友達なんてできるわけないわ。だって・・・・親が・・・。 「あぁ、でも、友達と遊ぶと両親が・・・・また邪魔をするわ」 「そうですね、邪魔をします。だからこそ、邪魔をされないように両親から離れるんですよ。両親から離れればあなたにも友達ができるんですよ」 「両親から離れる・・・・そんなことできるの?」 お父さんと離れたら遊んであげるよ・・・・仲間になりたいんならお父さんとケンカしなさいよ・・・・、お父さんは私たちとは遊べないんだよ・・・・・あんた一人ならいいのになぁ、遊んであげるのになぁ・・・・・一人になればいいのに、そしたら遊べるのに・・・・ホント?、一人になったら遊んでくれるの?、ホント、ねぇホント・・・・でも・・・できるかなぁ、あたしにできるかなぁ・・・・。 「できますよ。簡単です」 親と離れる?、離れれば遊んでくれるの?・・・・ねぇ、みんな、お父さんやお母さんと離れたらホントに遊んでくれる?・・・・遊んであげるよ、ホントだよ・・・・・うん、じゃあ離れるぅ・・・・そうだよ、離れなよ・・・・うん、でもどうやって離れるの?どうすればいいの・・・・簡単だよ勝手に家を出ればいいんだよ・・・・・勝手に?勝手に?勝手に家を出る?・・・・そんな・・・そんなこと許されない・・・・・だって、怒られるもん・・・・。 「どうすればいいの?」 「簡単です。家を出るだけです」 「あぁ、やっぱり・・・・でもそれはできない。そんなこと許されない」 「許されない?、誰に許されないんですか」 「親に許されない・・・・んです」 「親から離れるために家を出るのに、許すも許さないもないでしょう。勝手に出ればいいんです」 勝手に出ればいいんだよ、みんなと遊びたいんだろ、家に帰ったらこっそり家を出てくればいいんだよ・・・・そんなことできるの?・・・・できるさぁ、じゃあ、あとで公園でね、みんな待ってるよ、待ってるよ、待ってるよ、待って・・・・・。 「みんなが待ってる。公園で私が来るのを待ってる、行かなきゃ、行かなきゃ、早く行かなきゃ、こっそり家を出るの、お母さんに見つからないように、こっそり家を出るの、シンちゃんが教えてくれた。お母さんがトイレに入っているすきに家を出ればいいんだよって、みんなが一緒なら怖くないよ、怒られないよって・・・・。だから、行かなきゃ!」 「そう、あなたは行かなきゃいけないんですよ。家を出なきゃね」 「わたし、家を出る。だってみんなが待ってるもん。みんなが遊んでくれるって・・・・」 「さぁ、今こそ家を出るのです。みんなが待っているから、早く家を出るんです」 その声は力強く私に響いてきたのだった・・・・・。 「あぁ、こんな時間。でも、もうどうでもいいわ。時間ばかり気にしてバッカみたい」 私はそう言って腕時計を外し、店のドアをあけると外に投げてしまった。最後に見た時計は午後9時35分を示していた。門限時間はとっくに過ぎ去っている。 「そもそも25歳にもなって門限が午後7時ってことはないですよね。あぁ、バカみたい。もっと早くに気がつけばよかった」 「随分、洗脳が強かったですからね。なんせ幼稚園の頃からですから」 「あぁ、思い出しただけでも腹が立つわ。幼稚園の頃から監視されていたなんて・・・・」 「でも、もうあなたの洗脳は解けましたよ。あなたは自由です」 「はい、ありがとうございます。なんだか、すっきりしました。私、会社の帰りに不動産屋さんに寄っていきます。すぐ近所にあるんですよ」 「難しい手続きのいらない物件がいいですよ。家具付きですぐに生活ができるタイプがいいんじゃないですか。着替えだけあればいい、という部屋です」 「えっ、そんなのあるんですか?」 「ありますよ。そうですねぇ、先輩の%*(ピー)さんに聞いてみればいいんじゃないでしょうか。ご存知でしょ?」 「%*(ピー)さんって・・・主任ですよ。どうして知ってる・・・・あ、まさか・・・・主任がここへ?」 「さあ・・・、ともかく聞いてみなさい。教えてくれるでしょう」 「はい、わかりました。あ、そうだ。自由を勝ち取った記念に何かお酒を飲みたいんですが・・・」 「お酒は初めてですか?」 「はい、飲んだことはありません」 「ならば、これがいいでしょう」 そうマスターは言うと、手早く何かを作り始めた。そして、シェーカー(という名前は後から知った)を振ると 「さぁ、どうぞ。お酒が初めての方のためのカクテルです」 それはとてもきれいな色をしたカクテルだった・・・・・。 こうして私は自由を勝ち取ることができた。しかし、これですべてが解決したわけではなかったのだ。私の両親は恐るべき親だったのである。 ★魍魎の家・・・・後 「急がなきゃ・・・。残業がなければもっと早くにこれたのに。あぁ、なんでこんなことで・・・。どうせなら、他のことで来たかった。それにしても、この道を通るのは久しぶりだわ・・・・」 そう、その道はBouz Barへ通じる道だった。時刻は午後7時半ころだった。 「いらっしゃいませ、ようこそBouz Barへ」 「お久しぶりです。覚えてますか?」 「おやおや、これは・・・覚えてますよ、主任さん」 「やっぱり、来たんですね彼女。主任さんっていうの、彼女だけなんです」 「はい、きました。そして、あなたも来ると思っていましたよ。まあ、どうぞ座ってください」 私はカウンターの中央、マスターの目の前の席に座った。相変わらず、陰気くさい表情のマスターである。 「何を飲みますか?」 「ジンジャエールを」 「かしこまりました」 マスターは、私の前にジンジャエールの入ったグラスを置いた。 「今朝、彼女が私のところに来たんです。相談したいことがあるって・・・・。で、彼女が言うには一人暮らしがしたいってことだったんです。しかも、今日からでも住める場所がいい、ということでした。だから、ネオパーレを教えてあげたんです。昼休みにでも行ってみてくるといい、と。」 「事情は聞かなかったんですか?」 「はい。まあでもだいたい察しはつきます。彼女の家は厳しいことで有名でしたから。ついに彼女も親元を離れたくなったのか、と思っただけでした。でも・・・・」 「親が何か言ってきた?」 「そうなんです。彼女の話を聞いた後、今度は課長に呼ばれたんです。彼女のことで。で、課長と来客室に行くと、部長が待っていました。部長が言うには、昨日の夜・・・・午後7時半くらいのことだそうです・・・彼女の家から電話があったのだそうです。彼女の両親からの電話が・・・・。」 部長の話によると、昨日の午後7時半ころ、片付けを終えて帰ろうとしたところに外線電話が入ったそうなのだ。それが、彼女の父親からの電話だった。彼女の父親が言うには、娘がまだ帰ってきていないが今日は残業なのか、娘は朝そんなことは言っていなかったが急な残業が入ったのか、娘から連絡がないが、本当に会社にいるのか・・・などと、矢継ぎ早に尋ねてきたのだそうだ。 部長は、彼女がすでに帰っていることを知らせた。そのとき、すでに全員が退社していたのだ。それをそのまま伝えると、彼女の親は、帰宅途中で誘拐されたのだとか、事故にあっているのかも知れないとか、大事な娘を行方不明にさせたのは会社の責任だとか、もし娘になにかあったらどう責任を取るのだとか、喚き散らしたらしい。部長は、困ったというよりも呆れて、そんなに心配なら警察に届ければいいのではないかというと、そんなことは言われなくてもわかっていると怒って電話を切ったそうなのだ・・・・。 「そうですか。まあ、予想通りといえば予想通りなんですがね・・・」 マスターはそう小声で言った。何が予想通りなのか聞こうとしたら 「で、彼女は?」 と、先に聞かれてしまった。私はその質問をするタイミングを失くし、仕方がなく答えた。 「昼休みにネオパーレに行って、部屋の賃貸契約をしてきたみたいです。主任、ありがとうございますって言ってましたから」 「ということは、今日は帰っていない・・・のでしょうか?」 「いや、そんなことはないと思います。いったん家に戻って、必要なものを箱詰めにして部屋に送るのだ、と言ってましたから」 「あぁ、なるほどね。ならば、明日の夜ですね」 「はい?、明日の夜って?」 「いえいえ、彼女が一人暮らしを始めるのが、という意味です」 「あぁ、そうですね。たぶん、明日の夜からだと思います・・・いったい、どういうことなんですか?。さっきから何か隠していません?。こう見えても私って勘が鋭いんですから」 「どういうこともこういうこともないですよ。何も隠していません。そうですねぇ・・・・」 マスターはそういうと、顎に手をあてて話し始めた。 「彼女は、厳しい親元から離れたくなりました。で、ようやく決心して一人暮らしを始めるに至った・・・それだけです。ただ、その決心がなかなかつかなかったので、その後押しをしてもらうために、ここに来たのですよ。ところが、ここに来ていたため、家に帰るのが遅くなりました。それで、ご両親は心配になり会社に電話をかけた・・・。それだけのことです」 「ま、まあ、簡単に言ってしまえばそうなんでしょうけど・・・・どうもなんだかなぁ・・・・」 「主任さん」 マスターはそう言うと、私に顔を近づけて、鋭い目で私を見つめた。その目に圧倒された私は思わず身を引き 「な、なんですか・・・」 というのが精いっぱいだった。マスターは、いつもより低く重い声で言った。 「事情は詳しくは知らないほうがいいでしょう」 「あ、は、はい・・・。わかりました」 マスターは、いつも通りの直立の姿勢に戻ると、いつもの優しい声で言った。 「彼女が話せるようになったら、話をするんじゃないでしょうか」 「それまで放っておけと?」 「いや、見守っていてください」 「あ、あぁ、見守る・・・ですね。どうも、そういうところの優しさが私は足らないんだなぁ・・・・」 「自分で気付いて、それを素直に認められるのですから、たいしたものです」 すっかり、いつものマスターである。 「褒めていただけると嬉しいですね。照れるわ。あ、そうそう、あの関西弁の人の店、Meido Barにいってきましたよ。偶然見つけたんですけどね」 「元気にしてましたか?」 「いつもの通り。そこで、秘密を聞いちゃった」 「秘密・・・・ですか」 「マスターって・・・」 「おっと・・・どうやらその話は、また次の機会にしたほうがよさそうですね。明日の夜ではなくて今夜らしいですから・・・」 「今夜?」 「はい、あなたは帰った方がいい。でないと、巻き添えを食らいますよ」 「いったい何が・・・・。あ、なに?、この音なんですか?。まるで、携帯のバイブがなっているような・・・・。これってひょっとしてあの呪いの御札が震えているんじゃ・・・・」 「さぁ、早くお帰り下さい。つまらない詮索は身を滅ぼします。さぁ、今日は帰った方がいい」 また、あの陰気くさい悪魔のような顔をしたマスターに戻っていた。私は、いったい何がおこるのか興味津津だったが、マスターの放つ雰囲気に気押され、店を出たのであった。時刻は午後8時半であった。 「ここのマスターというのは、あんたかね?」 ドアをあけるなり、その初老の男は言った。時刻は午後9時を回ったところだった。 「いらっしゃいませ、ようこそBouz Barへ。どうぞ、お好きな席にお座りください」 「あんたがマスターかと聞いているのだ。質問に答えてもらおう」 その男は、ドアを開けたまま、仁王立ちになって言った。 「はいそうですが・・・申し訳ないのですが、ドアを閉めてください。入られる入られないは自由ですが・・・・」 そういわれ、男はしぶしぶといった感じで、店の中に入ってきた。その男の後ろには初老の女性も一緒だった。その女性は、静かにドアを閉めた。 「仕方がない、座ってやろう」 二人は並んで、カウンターのほぼ中央に座った。 「ご注文は?、何に致しますか?」 「なにもいらん。あんたに話があってきた」 「ここはBarです。何かお飲み物を注文されないのでしたら、お引き取り下さい」 「ふん・・・・、仕方がない。じゃあ・・・・オレンジジュースを。お前も同じでいいな」 男がそう言うと、一緒にいた女性は、黙ってうなずいた。 しばらくして、その老夫婦の前に出されたグラスには・・・泥のような色がした飲み物が入っていた。 「こ、これがオレンジジュースなのか?。いい加減にしろ、何ていう店なんだ!」 「それが当店のオレンジジュースです。見た目は悪いですが、味は保証します。味見をしていないのですから、美味しいのか不味いのかわからないのではないでしょうか」 「ふん、屁理屈をこねよって・・・・」 男は、そう不服を言いながらもグラスに口をつけた。 「おっ・・・・ふん、まあ、飲めるな。確かにオレンジジュースだ・・・・。お前も飲んでみろ」 そういわれ女性も飲んでみた。女性は、一口飲むと、にっこりとほほ笑んでうなずいた。 「ご満足いただけたでしょうか」 「ふん、こんなことでごまかされんぞ」 男はそういうと、マスターを睨みつけた。 「おい、娘をどこにやった。うちの娘がここに来たことは確かなんだ。ちゃんと調べたからな。さぁ、娘を出せ!」 「娘さん?。どこの娘さんでしょうか?。ここには私以外あなたたちしかいませんが」 「そんなことはないだろう。ここにいなきゃ、どこかに隠したな」 「隠す?。どこへ?何を?・・・・いったい何のことをおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんが」 「うちの娘だ!。ここに来ただろ?」 男はそう言うと、立ち上がってマスターの顔を指さした。マスターは、表情を全く変えず、普段の通りに答えた。 「さぁ・・・・。あなた方の娘さんとなるとお年は20代でしょうか?。そうした年齢の女性はよくいらっしゃいますので、その中のどなたがあなた方の娘さんなのか・・・・。確かにここに来られたのでしょうか」 「来たはずだ。私は娘の会社の名簿を使って、電話をかけて調べたんだ。同じ課の人間にな。最近、うちの娘がどこかへ行っていないか心当たりはないかとな。そしたら、娘の同僚とかいうお嬢さんが、うちの娘がこの店の場所のことを聞いていた、と教えてくれたんだ。ほんの先ほどのことだ。嘘をついてもすぐにわかるぞ。どうもこの店は、娘の会社のOLたちの間で話題になっているそうじゃないか。怪しい店だ、とな」 「ほう、怪しい店・・・・ですか。それはそれは、光栄です。なんにしても話題になることはいいことです」 「何をとぼけているんだ。そんなことはどうでもいい、娘はここに来たのだろう。カウンターの中に隠しているのか?」 そういうと、男はカウンターの中を覗き込んだ。 「くっそ、いないな。・・・・おや、あんなところにドアがある。そこか、そこに隠しているんだな」 男はカウンター横の奥の方のドアを開けた。しかし、そこはトイレだった。トイレの横にもドアがあった。 「そうか、こっちのドアか」 そのドアもあけると、そこには掃除道具が入っていた。 「えぇぇい、どこだ、どこに隠した。うちの娘をどこに隠したんだ」 男はトイレの入り口で叫んだ。 「お客さん、お席にお戻りください。あなたの娘さんはここにはいません。それに、娘娘とおっしゃいますが、あなたのおっしゃっている娘さんがどのような方なのか、私には判断できないのですよ。先ほどから、そう申し上げているではないですか」 「うちの娘は、名前は・・・」 「名前をおっしゃられても困ります。お名前などは伺っていませんから。当然のことですよ」 「あぁ、そうか・・・誰も店で名乗ることなどないな・・・・。あぁ、じゃあ、うちの娘は・・・・あぁ、そうだ、写真がある。これだ、この娘だ」 そういうと、男はカウンター席に戻り、ポケットから免許証入れを取り出し、マスターの目の前にそれを示した。それは家族で写った写真だった。 「あぁ、このお嬢さんなら確かに来られましたよ」 「やっぱり来たのか。じゃあ、どこへやった。今日、娘はいったんいつも通りの時間に帰ってきたのだが、私が風呂に入っているとき、女房がトイレにっている隙にいなくなってしまったんだ。娘は来たのか来なかったのか!。さぁ、答えろ!」 男はオレンジジュースを立ったまま飲みながら、マスターの答えを待った。 「えぇ、確かに娘さんは来られましたよ、ただし、それは昨日のことです・・・・・魍魎さんたち・・・・」 マスターの声が急に低く重くなった・・・・。 「う、うぅぅ・・・・、娘は・・・・娘は大事な娘なんだ。私はあの子がいないと生きていけない・・・・・。どうしてだか、あの子のことが昔から心配で心配で・・・・・」 そういうと男は力が抜けたように、ドサリと椅子に座ったのだった。 「異常・・・・かもしれない。そう、異常なんだろう。自分でもわかっている。異常なのだ・・・・。だが、この気持ちは抑えられないんだ。娘に何かあったらどうしよう。学校でいじめられてはいないか、学校帰りに事故に遭ったりはしないか、誰かにさらわれたらどうしよう、先生にいたぶられてはいないか・・・・あぁ、悪い遊びとか覚えたらいったいどうすればいいのか・・・・・。毎日毎日そんなことばかり頭に浮かんでくるのだ。だから、いつも女房に監視をさせていた。学校の行き帰りを気をつけよ、いつも見張っていなさい、気付かれんようにな、と・・・・・。 あの子が小さいうちはよかった。幼稚園で遊んでいる頃はそれほど心配ではなかった。まだまだ幼いからな。しかも、バスで送り迎えしてくれる。近付いてくる男の子も女の子も、まだ幼い。安心だ。今の幼稚園は、事故や怪我があることに非常に敏感だから、目が行き届いている。それでも心配だから、過去に事故が起きていない幼稚園を調べて、私がこの目で確かめてから選んだのだ。さらに、幼稚園ならば、女房がたまに見に行くこともできた。行事には私も参加できた。しかし・・・。 学校に行くようになって・・・。低学年のうちはよかった。高学年になると、娘の身体にも変化が生じる。女性としての身体つきになっていくのだ。そうした娘を見ていると・・・・心配で心配で夜も寝られなくなってきたんだ・・・。このままだとノイローゼになってしまう。実際、心療内科に通ってもいた。安定剤が必要だったからな。 悪ガキどもが、娘のスカートをめくったりはしないか、身体に触れたりはしないか・・・・。変態教師に襲われたりはしないか、学校帰りに変質者に連れ去られたりはしないか・・・・。 あれは、5年生の時だったか・・・。女房から娘がまだ帰ってこないという連絡が会社にあった。私はあわてて学校に電話をした。娘はまだ下校していなのか、と。下校していないのなら早く帰して下さい、学校の行事で遅くなることがあるときは事前に知らせてください、もしうちの娘に何かあったなら責任は学校側ですよ、今は危険なんです、どんなヤカラがうろついているかわかりません、うちの娘だけでも早く帰して下さい、毎日娘の母親が迎えに行きますから・・・・とね。電話に出た先生は慌てたようだった。もし何か生徒にあったら・・・・先生は大変だからねぇ・・・。 それ以来、女房は毎日娘を迎えに行ったんだ・・・・。 ところが、中学の時、悪い友人ができて、娘を裏口から外へ連れ出したんだ。女房から連絡があり、私は慌てた。すぐに会社を飛び出した。だが、狭い町のことだ、中学生がうろつく場所など限られている。娘はすぐに見つけることができた。ちょうど、たまたま不良っぽい学生が3人ほどいた。私は金をやって、娘を襲うふりをするように頼んだ。襲いかけたら私が通りかかり娘を助ける・・・陳腐な芝居だ。 それでもうまく行った。娘はすかっかり私を信じ込んだのだ。娘を連れだした同級生には、その子の家に乗り込んでいき、その子の親に、娘を悪の道に誘うな、御宅の娘は不良だ、学校帰りに街をうろつく不良だ、親の教育がなっていないから娘が不良になるのだ、と注意しておいてやった。あれは、いいことをしたと思っているよ・・・・。 それからは簡単だった。毎日のように女房と二人で、外は危険だ、まっすぐ帰ることが安全だ、お父さんとお母さんと三人でいることが安全なのだ、いいかい、お前は私たちの宝物なんだよ、お前に何かあったらお父さんたちは生きてはいけないんだ、だからいつも一緒にいるんだよ・・・と繰り返し言ったのだ。 娘は素直に従ったよ。中学、高校、大学と娘は素直だった。まっすぐ学校に行き、まっすぐ家に帰ってきた。学校の行事の準備で遅くなるときは女房が迎えに行った。私が行くこともあった。もちろん、二人で行くこともあった。そういうときは、学校帰りに買い物や食事に行ったりもした。カラオケだって連れて行ってあげた。喜んでいたよ。私は娘の喜ぶ顔を見るのが大好きだった・・・・。お父さんやお母さんと一緒なら安全だ、怖くないよ、そういう時は街に出ても平気だよ、外で食事もできるんだよ、だけど一人で行ったり、友達と行ったりしてはいけないよ、子供だけだとわかると街の悪い男どもが襲ってくるからね、いいかい、外に出るときはお父さんと一緒だよ・・・・。 会社に入ってもそれは変わらなかった。娘は毎日決まった時間に会社に行き、決まった時間に会社から帰ってきた。うちから会社まではそんなに離れていない。なるべく近い会社を選んだのだ。駅まで歩いて5分、電車が10分、駅から会社までが歩いて3分。しかも、この街・・・・いかがわしい酒場が集まったこの街とは離れている。いい会社だ・・・・。 あぁ、なんてかわいいんだ、なんて愛しいのだ、うちの娘は・・・・。あれほど素直でいい子はほかにいない。・・・・娘はいつも言ってくれた。お父さん、友達なんていらない、お父さんとお母さんがいれば私は幸せだわ、ずっーと一緒にいてね・・・・そう言ってくれた。なんてすばらしい言葉だろう。至福の時だった・・・・。 それなのに・・・それなのに・・・・・。突然、娘はいなくなってしまった。部屋の荷物も消えている・・・・。一体どこへ娘をやったんだ?。いったいお前は何者なんだ!。娘を・・・・娘を・・・・あの素直でいい子だった娘をどこへやったんだ!。大事に、大事に育てあげた娘を・・・・。お前は、お前は・・・・許せん、お前は・・・・万死に価する!。早く、早くあの子を返せ、あの子を私に返してくれ・・・・」 男は、涙ながらに訴え、立ち上がってマスターに迫ってきた。 「座れ、魍魎よ」 迫ってくる男の耳元でマスターが囁いた。 「魍魎?・・・・私のことか?」 男は緩やかに座ってそう言った。 「そうあなたは魍魎だ。人にとり憑き、その人を支配しようとする醜き妖怪だ」 「なんだと・・・・なんでこの私が・・・・そんなくだらない・・・。バカもほどほどにしろ。くだらん。教養がないのかね、君は・・・・」 「くだらなくはありません。あなただって本当は気がついているんでしょ。己の醜さに。己の身勝手さに・・・・」 「醜い?、身勝手?、この私が?・・・・・ふん、何を言うか、バカバカしい・・・・」 その声は消え入るようだった。男はグラスに残っていたオレンジジュースを一気に飲んだ。 「確かに・・・・確かに俺は身勝手かも知れん。いや、身勝手なのだろう・・・・。だけど、仕方がないのだ。どうしてもこの感情は抑えがたいんだ・・・・あぁ、どうしてなんだ、なんで、なんで・・・・。俺は異常か?。異常だよ、俺は異常人間だ。娘に恋をしている異常人格者だ。いや、恋なんてものじゃない。恋以上だ。娘はもはや俺の身体の一部だ。心の一部だ。娘のためだったら何でもできる・・・・・笑えよ、笑いたいんだろ、異常者だと言えよ、お前は狂っていると言えよ・・・・あは、あはははは、あはははは・・・・・」 「魍魎・・・・」 その男の妻が初めて声を出した。 「魍魎・・・・その通りかもしれない。この人は魍魎です。娘にとり憑いた魍魎です・・・・。私は心配でした。いつかこの人が本当に娘を犯してしまうのではないかと・・・・。でもその心配は必要ありませんでした。娘を犯すなんて・・・そんな冒涜的なことは、この人はできないのです。それ以上の愛を娘に感じていたのですから。女としてではなく、もちろん娘としてでもなく・・・・まるで本当に自分の一部、分身のような扱いでした。いや、娘が本体で自分が分身なのかも知れません。いやいや、それよりも魍魎が最も適切な表現です。この人は、娘にとり憑き、娘ごと食べてしまったかのようなのです・・・・・」 「おぉ、食べる・・・・そうだ、そうなのだ。もし、許されるなら娘を食べてしまいたい。もしできるなら、この俺の腹の中で娘を囲っていたい。・・・・あぁ、それはいい案だ。なんとか俺の腹の中で娘を育てることはできないか?。カンガルーだってやっているんだぞ。人間にだってできるさ。そうだ、それはいい案だ。早速知り合いの医者に聞いてみよう」 そういうと男はフラフラと立ち上がった。 「いい加減にしないか、魍魎よ!。座るんだ!」 マスターの怒りに満ちた声が・・・大声ではなかったが・・・・大きく響いた。 「魍魎、お前の出る幕はもうない。さっさと消え失せろ」 「な、なんだと・・・・何を・・・・くっ・・・・」 男の顔は苦悩に歪んだ。 「あなたの娘さんは、あなたの娘であって、あなたのモノではない。一人の人間としての人格があるのですよ。あなたの自由になるモノではないのです。もういい加減にとり憑くのはやめなさい・・・」 「な、なんだと・・・、そ、そんなことは・・・・・そんなことはわかって・・・」 「わかっていない。あなたは娘を自分のモノにしたいだけなのだ。人間ではない、単なるモノにしたいだけなのですよ。娘さんを人間として見ていないのです。自分のモノとしか見ていない。あなたは自分の娘さんをモノとして扱っているのですよ!」 「そ、そんなことはない!、そんなことは・・・・娘は・・・・私の大事なモノ・・・あぁ、違う違う。モノじゃない、娘は娘だ。・・・・・そうそう、娘は娘なのだ・・・はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」 「そうですかねぇ・・・、今本音がちらりと出たじゃないですか。あなたは、娘は自分の大事なモノ、と言った。確かに言った。それが本音でしょ」 悪魔のようなマスターのささやきが、男の耳元で響いた。 「ほ、本音・・・・はぁ、はぁ、はぁ・・・・ほ、本音は・・・・はぁはぁはぁはぁはぁ・・・・」 「本音は?。言ってしまいなさい。言えば・・・・・極楽ですよ」 再び悪魔は囁いた。 「ほ、ほ、本音は・・・・ゲホッ、ゲホッ・・・・・はぁはぁはぁ・・・・娘は・・・・俺の娘は・・・・・俺の・・・・俺の・・・・大事な・・・・はぁはぁはぁ・・・・大事な・・・・・」 「大事な・・・・なんですか」 「俺の大事な・・・・・モノ・・・・・モノなんだ・・・・・」 「そう、あなたは娘さんをモノとして見ているんですよ。大事なモノ。それは人間じゃない。モノなのですよ」 「うわーっ、うわーっ、うおぉぉぉぉ・・・・・、俺は・・・・そんな、そんな・・・・そんなひどい・・・・」 「そう、あなたはひどい親だ。娘をモノ扱いしている。何一つ自由を許さず、自分の懐の中に入れておこうとしている。それは、もはやモノ扱いなんですよ。ひどい人だ。あなたはひどい人なんですよ」 悪魔はそう言って睨みつけた。 「お願いです。もうその辺してあげてください。これ以上は・・・・。夫を、主人をこれ以上壊さないでください」 夫人は、彼を抱え込んでいた。 「よろしい。もうこれ以上は何もしません。ですから、今日のところはお引き取り下さい。娘さんは・・・」 「娘のことはいいのです。私にはわかっていました。娘が窮屈がっていることを。籠の中から飛び立とう、飛び立ちたい、そう思っていることを・・・・。でも、娘に自由を許すと、家が壊れるような気がして・・・・。でも、もうすでに壊れていたんですよね。魍魎の家は、とうの昔に壊れていたんです。わかっていました、わかっていました。そんなことは・・・・もうずっと前からわかっていたのです・・・・」 「奥さん・・・」 「いいんです。大丈夫です。壊れた魍魎の家には、年老いた魍魎がだけが住めばいいんです。娘の居場所は知らなくてもいいんです。そのうち、落ち着いたらちゃんと知らせてくれるでしょう。私はそう信じてます。ですから・・・・娘が・・・・娘が知らせてくれることを・・・・二人で・・・・二人で待っています・・・・・壊れた魍魎の家で・・・・」 そういうと、夫人は男を抱きかかえながら店から出ていったのだった。 「歪んだ親子関係は・・・・・・人間は虚しい生き物だ」 マスターはそう呟きながら、ドアの外に札をかけた。 「CLOSE」の札を・・・・。 ★魍魎の家・・・後日譚 ドアが開いた。 「すみません、今日はもう閉店なんですが・・・」 「あ、あきまへんか?」 「なんだ、あなたでしたか・・・・、どうぞ中へ」 カウンターの外に出かかっていたマスターは、カウンターの中に戻った。男は、L字型カウンターの短い方に座った。この男がいつもすわる場所である。男が座った後ろにはトイレのドアがある。 「どうしたのですか、こんな時間に・・・・珍しいですね」 「こんな時間って、まだ11時半やないですか。まだまだ宵の口でっせ〜」 「いやいや、もう11時半です。この店は、閉めるのが早んですよ」 「相変わらずいい加減なことを言いますな〜。閉めるのも開けるのも気分しだいやのに・・・・」 「適当な店ですからね。あなたの店はどうなんですか?」 「まあ、ボチボチですわ。こない不景気やと、あきまへんなぁ・・・・」 「といいつつ、そうでもなさそうな顔をしている」 「そんなことあらへんがな。まあ、なんとかかんとかですわ。え〜っと、バーボンの水割りを・・・シングルがええなぁ」 「かしこまりました。それにしても、今日は遅いですね。いつもはもっと早い時間に来られるじゃないですか」 「今日は、忘年会があったんですわ」 「あぁ、そういう季節ですねぇ。私には関わりのないことですが・・・・」 「なんや、マスターは忘年会はでぇへんのですか?」 「縁がありませんね」 「そんなもんかないなぁ・・・。楽しいですよ〜、若いねーちゃんと戯れる忘年会は。むふふふ」 「楽しそうで何よりです」 「つまらん人やなぁ、相変わらず。ま、ええけどな。マスターが若いねーちゃんに鼻の下伸ばす姿なんて想像できへんしな」 「そうですか?。そんなこともないですけど・・・おや、今日はこんな時間に他のお客さんが・・・」 「えっ?、他に客がくるんかいな?。なんでわかるん?」 「ほら、もうすぐドアが開く・・・・」 マスターのその言葉通り、店のドアが開いた。 「いらっしゃいませ、ようこそBouz Barへ。おや、あなたたちですか・・・」 「こんな時間にごめんなさい。忘年会の帰りなんです」 「主任さん・・・じゃなかった、チーフにくっついてきてしまいました。入っても大丈夫ですか?。一人じゃなきゃだめですか?」 「大丈夫ですよ。一度来られたお客様どうしなら、多人数でも構いません。どうぞ、お好きな席に」 マスターがそういうと、その二人の女性はマスターの正面、L字型カウンターの長いほうのカウンター席に座った。 「この子、とうとう一人暮らしを始めたのよ」 「おかげさまで、何とか一人暮らしができるようになりました」 そういう女性の顔を見て、マスターは言った。 「そうですか・・・。苦労はあったようですね。ご両親はその後・・・・」 「はい、両親は・・・・」 その女性は、一人暮らしに至ったときの、両親のことを語り始めたのだった・・・・。 あれは昨年末のことだった。私たちは忘年会の帰りにBouz Barに立ち寄ったのだ。 「いらっしゃいませ、ようこそBouz Barへ。おや、あなたたちですか・・・」 「こんな時間にごめんなさい。忘年会の帰りなんです」 「主任さん・・・じゃなかった、チーフにくっついてきてしまいました。入っても大丈夫ですか?。一人じゃなきゃだめですか?」 「大丈夫ですよ。一度来られたお客様どうしなら、多人数でも構いません。どうぞ、お好きな席に」 私たちは、前に来た時と同じようにマスターの正面、L字型カウンターの長いほうのカウンター席に座った。 「この子、とうとう一人暮らしを始めたのよ」 「おかげさまで、何とか一人暮らしができるようになりました」 彼女の顔を見て、マスターは言った。 「そうですか・・・。苦労はあったようですね。ご両親はその後・・・・」 「はい、両親は・・・・」 彼女は、一人暮らしに至ったときの、両親のことを語り始めたのだった・・・・。 「私、父がお風呂に入っている間に家を抜け出たんです。たまたま母がトイレに入ったんです。父はお風呂、母はトイレ、家には私一人・・・。こんなチャンスはないって思ったんです。そう、シンちゃんが言っていたように・・・。トイレに入った時に家を出ればいいんだよ・・・・。 新しい部屋は昼間のうちに契約しておきました。主任・・・いや、チーフに聞いて、ネオパーレに行ってみたんです。そしたら、あそこって、家具がついているんですよ。私、知らなかった・・・・。ホント、世間知らずですよね。家ではTVはN○Kしか見させてもらえなかったから、CMとか知らないんですよねぇ・・・・。これから、TVも好きな番組が見られます。楽しみだわ・・・。 ここなら着替えだけあればいい、そう思ってすぐに契約しました。だから、家に帰って荷物をまとめる必要もなかったんです。私の荷物なんて・・・・そんなにないし・・・。着替えさえあればいいんです。着替えだって、大きめのバッグに入ってしまうほどしかないし・・・・。 私の25年分の荷物なんて、たったこれだけ。私のものなんて鞄一つに入ってしまうものだけ。あとはみんな与えられたもの。父が・・・私に・・・・与えたモノ・・・。自分で買ったものなんて・・・・ホントに少ない。 まあ、それがよかったんですけどね。少ないチャンスを生かすことができたんですから。荷物がたくさんあったら、あのとき家を出ることはできなかったかも知れない。で、私、走って逃げだしたんです。バッグを一つ抱えて、猛ダッシュですよ。 気付いたら電車に乗っていました。会社へ向かう方向の電車に・・・。ネオパーレからは部屋の鍵は受け取っていたし、場所もわかっていたから部屋に直行しました。いよいよ、私の一人暮らしが始まる、そう思うと、嬉しくもあり、不安でもありました。でも・・・・、ぜんぜん危険じゃなかった。あれからもう2週間ほどたったけど、何も危ないことなんてないです。ホント、家を出てよかった・・・・」 彼女はなんだか悲しんでいるように見えた。だから 「あんた、本当に喜んでるの?」 と、ついついい聞いてしまったのだ。 「えっ、な、何言ってるんですかチーフ。喜んでいるに決まってるじゃないですか」 「ふ〜ん、でもさぁ、なんだかちょっと・・・・ねぇ、マスター」 「おっと、そういえば、まだご注文を承っていませんでした。失礼しました。何になさいますか?」 「あ〜、そっか〜すっかり忘れてた。えっと、私は・・・なんですか、このスペシャルカクテルって」 マスター、わざと話をそらしてる・・・。 「スペシャルなカクテルです」 「ぶっ!、もう、相変わらず変なマスターですね。じゃあ、私はこのスペシャルカクテル。あんたはどうするの?。もうお酒飲めるんでしょ?、あぁ、そう言えば今日も忘年会で飲んでたわね。この子ね、結構強いのよ」 「ほう、そうなんですか。それは意外ですね」 「そんな〜、強くないですよ。チーフには負けます。えっと〜、じゃあ、私もスペシャルカクテルで」 「は、かしこまりました」 マスターがお酒を造っている間、しばらく沈黙が流れた。誰も何もしゃべらない。ジャズの音色だけが流れていた。 「お待たせいたしました。スペシャルカクテルです」 カウンターに置かれた二つのカクテルは、同じものではなかった。 「あれ?、同じスペシャルカクテルなのに、なんで私とこの子のは違うの?」 「ホント、チーフのは赤色、私のは三色だわ・・・・」 「なんだか、あんたの方が綺麗ね。チッ、もうどいつもこいつも男ってヤツは若い子の方がいいのねぇ」 「そんな目で睨まないでください。若い子にサービスしたとか、そういう意味ではありません。一度裏メニューを注文された方には、その方に合わせてスペシャルカクテルを作っているのです」 その言葉に、二人ともマスターの顔をじっと見つめた。そしてカクテルを見る。 「ふ〜ん、そうなんだ」 「あっ、そうか・・・・それで三色なんだ・・・・」 「深くは言いません。それで気づいていただければ・・・」 「うん、わかりました。じゃあ、私がスペシャルカクテルを注文すると、この赤いのが出てくるんですね」 「そういうことになります」 私たちは乾杯し、カクテルを飲んだ。 「おいしい・・・」 「うん、おいしい。マスターって、こっちが本業なんじゃないの?。カクテル作るのうますぎよ」 「えっ、本業って?、どういうことなんですか?」 「あら、あんた知らなかったの?。あぁ、そうか、普通は知らないんだ。あのね、マスターってさ・・・・、あれ?、うん?、どうしたの?」 そのとき彼女の様子が急に変ったのだった・・・。 「えっ?、なんだか気持ちいい・・・、ふわふわする・・・・なんだか・・・・はぁ・・・・」 彼女は、急に話をし始めた。普段は無口なのに・・・。 「私って・・・・私って・・・・私って生まれてきちゃいけなかったんじゃないかって・・・・。そう、生まれてきていけない人間なんです、私は・・・・生まれてくるんじゃなかった・・・・・・あぁぁぁ」 彼女は、頭を左右に激しく振り出した。 「ちょ、ちょっと、大丈夫?。酔ったの?。ねぇ・・・」 「そのままに・・・。いったい何があったんですか?。すべて話すといい」 マスターがそっと囁く。これって・・・・。 「私・・・・家を出てすぐに携帯電話も契約しました。一応は、母にだけは連絡先を教えておいたほうがいいかと思って・・・・。それで、電話をしたんです。昼間、父がいない時をねらって・・・」 母の電話の対応はなぜか冷たかった。否、冷たくて当然かもしれない、私はそう思った。勝手に家を飛び出して連絡もしない娘に、怒っているのは当然だ。これも仕方がない。でも、あのときの母は・・・・。 『どうしたの?。どうして電話なんかしてきたの?』 『えっ、だって・・・・その・・・やっぱり怒ってるのね・・・。ごめんなさい。でも、どうしても家を出たかったの・・・・』 『二度と電話してこないで・・・・』 冷たく言い放った母の一言に、私は何も言えなかった。しばらく沈黙が続いた。電話は切れていない。母の息が聞こえる・・・・。ふと、小さな声が聞こえてきた。母が握っている受話器を通して、母以外の声が聞こえてきたのだ。その声は・・・・笑っていた。 (あははは。どうだお父さんの作ったおかずはおいしいか。たくさんお食べ・・・・。あ〜、ほらほらこぼして・・・・。いやいや、いいんだよ。こぼしてもいいんだよ。お父さんが拾って食べてあげるからね。おぉ、かわいいねぇ、お前は・・・。さぁ、ご飯を食べたら一緒にお風呂に入ろう。あぁ、そんなに慌てて食べなくても・・・・。ほら詰まってしまった。ゴメンゴメン、お父さんが悪かったよ。お風呂の話なんかしたから。ゆっくりお食べ・・・・、あははは、よい子だ、よい子だ・・・・あははは) その声はまさしく父親の声だった。 な、何なの?、お父さんよね、今のお父さんよね、お父さんどうしてしまったの?・・・頭の中は真っ白になってしまった。握り締めた携帯電話は汗でぬるぬるとしてきた。 『はぁ・・・・聞こえたでしょ。あの人は・・・・壊れてしまったのよ。あの人は・・・・、あなたとあの人だけがいる世界に入ってしまった』 『ま、まさか・・・・それ、それって・・・・本当に?・・・・あぁ、どうしよう、どうしよう・・・・・ご、ごめんなさい・・・・私のせい・・・よね・・・・、私のせいで・・・・お父さん・・・・・あぁぁぁ・・・その・・・・あぁぁぁ、ごめんなさい・・・・う、うぅぅぅ』 『あら?、なぜ泣くのかしら?』 『えっ?、・・・・・だって、だって、私のせいで・・・・お父さんが・・・・。私が家を出たせいで・・・・』 『あなたのせい?。あなたが家を出たせい?。バカ言わないでよ。あなたが家を出たせいなんかじゃない!』 『えっ、でも・・・・』 『ふん、あなたなんかのせいじゃない。あの人は自分で望んで・・・・、自分で望んで、自分の楽しみだけの世界に入ったのよ。あなたなんかのせいじゃない・・・・・・いや・・・・・いいえ・・・』 母は大きく息を吸った。 『やっぱり、あなたのせいだわ。あなたが悪いのよ!』 『あぁぁぁぁ・・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・私どうすれば・・・・どうしたらいいの?。あぁ、そうだ。今、今すぐ帰ります。すぐに家に帰ります。だから・・・』 『バカ言わないで!。帰ってこないでちょうだい!』 『お、お母さん?』 母はどなった。私は唖然としてしまった。一体どうしたのだろうか?。こんな大声で怒鳴る母の声を聞いたのは初めてだった。いつも、父の後ろでニコニコしているだけ、いつも穏やかに語りかけるだけ。母はそうした人だった。だから、母は本当に怒っている、心の底から怒っているのだ、そう思った。私は取り返しのつかないことをしてしまったのだと。だから・・・。 『あぁぁぁぁ、ごめんなさい・・・・あぁぁぁ私、私、とんでもないことを・・・・』 泣き崩れるしかなかった。しかし、母は 『あははは、何を泣いているの?。バカねぇ・・・。私は喜んでいるのよ。あははは、あははは、あははは・・・・』 な、なに?、なぜ?、どうしたの?、お母さん・・・・どうしたの・・・・。 それは言葉にはならなった。大声で笑い出した母に私は・・・・。私の足元から頭へと寒気が走った。背中には冷たい汗が流れていった。 『あはっ、あはは、あはは・・・、ふぅ〜、何を言っているの。うふふ、私はね、あんたなんかに帰ってきてほしくないのよ。出て行ってくれて清々しているのよ。・・・・ううん、あんたなんか生まれてこなけりゃよかったのよ・・・・。あんたなんか、生まれてきちゃいけなかったのよ。あんたが生まれたから・・・・。あの人が狂い始めたのはね、あんたが生まれたときからよ。・・・・・・そう、悪いのはあんた。あんたが全部悪い。あんたが生まれてきたのがいけないのよ・・・・』 母の声は、殺気を含んでいた。私は震えが止まらなかった。 『うふふふ・・・・あははは・・・・・でも、いいのよ〜。いいの、もう気にしないでね。私はあなたを責めてなんかいない。あなたに怒ってもいない。もちろん、悲しんでもいないの。むしろ・・・・今は感謝してるわ』 母は歌うように言った。そして 『出て行ってくれてありがとう。二度と帰ってこないで』 と低い声で、そう凄んだ。と思うと、また笑い始めたのだった。 『うふふふ・・・、でもね、私は嬉しいのよ。今はね、喜んでいるのよぉ〜、あはははは、うふふふふ。よくやってくれたわ。ホント、ありがとう、あはははははははは』 『いや〜!!!、やめてぇぇぇぇ!!!』 私は耐えきれず、思わず叫んでいた。息ができない・・・・はぁはぁはぁ・・・・。携帯電話が手から離れてくれない。指が・・・動かない・・・。助けて、誰か・・・助けて・・・・。 『・・・・・なにを興奮してるのかしら、大丈夫?。うふふふ。私は本当のことを言ってるのよ。あなたに感謝してるの。よく家を飛び出してくれたって・・・』 『いや〜、やめて〜!。許して、お願いだから、許してぇぇぇぇ・・・・。もうやめてよぉぉぉぉ・・・あぁぁぁぁ・・・・』 『おやおや、なにも泣くことはないのに。私はあなたを責めているわけじゃないのよ。怒ってもいないの。虐めてるわけじゃないのよ。私は喜んでいるっていってるでしょ。あなたに感謝してるって。ありがとうね、本当にありがとう。あなたが出て行ってくれたおかげで、あの人が私の元に帰ってきたのよ。ようやく、ようやく・・・・そう、ようやくよ、ようやく彼は私の手の中に帰ってきたのよ!。あぁ・・・長かったわ。待ったかいがあったわ・・・・25年よ。でも・・・・でも、帰ってきてくれた。愛しいあの人が私の元へ・・・こんな素敵なことってあるかしらぁ・・・・うふふふ』 母の嬉々とした声が怖かった。壊れている・・・母も壊れてしまった・・・・。壊れた母の声は続いた。 『私はあきらめていたのよ。あの人はもう私の元へは帰ってこない・・・そう思っていた。あの人の心はあんたが奪っていってしまった。あの日、あんたが生まれた日・・・』 母の声色が変わった。怒りが含まれている・・・・。 『あの日、あんたが生まれた日を境に・・・・あの人の心は私から離れた・・・・。あの人の私から、あの人の娘を面倒見る人へと私は格下げされた・・・・。こんなことってある?。屈辱だった・・・。あんなにあの人を愛していたのに・・・・・。あんたさえ、あんたさえ生まれてこなければ・・・・何度そう思ったことか。何度、あんたの命を・・・・でも、できなかった。そんなことをすれば、あの人は私を責める。責めて責めて責めて・・・・そして許さない・・・・。それは、耐えられない。そんなの耐えられないわ。だって、私にはあの人が必要なんだもの。あの人の悲しむ顔なんて見たくないんだもの・・・・。あの人に見捨てられるなんて、そんなこと・・・。だから、あんたが家を出る時を待ち望んでいたのよ。あの人に気付かれないようにね。 まったく、バカな娘には困ったものよ。世間知らずで、臆病で・・・・。さっさと家を出りゃあいいのに。このバカ女が!、と何度思ったことか・・・・。高校生になったのなら、少しくらい家出してもよかったのに・・・・。大学に行ったときは、できれば地方を受けてくれればよかったのよ。何も家から通わなくても・・・・。少しくらい夜遊びすりゃあよかったのよ。それを毎日毎日毎日毎日律儀に帰って来てさぁ〜、バッカみたい・・・・。あきれ返る大バカ娘よ、あんたは!。 やっとよ、やっと家を出て行ってくれた。この日を首を長くして待っていたのよ・・・・。あぁ、清々したわ。25年よ、25年、待ったかいがあったわ・・・・。あんたから出て行ってくれて本当によかったわ。言葉で言えなかったけど、心の中では叫んでいたわ!。やった〜、とうとう出て行ってくれたって!。嬉しさが顔に出ないように苦労したわよ・・・・。ホント、よかったわ〜、私が手を下さなくて・・・、本当によかった。私はあの人に責められることもなく、あの人を取り戻したのよ。あんたから取り戻したのよ!。 なんていうBarだったかしら、あの陰気くさい店。あの店のマスターにも感謝してるわ。あの人を私の元に届けてくれた。あんたを探し続けるって、あの人が言い出したらどうしようかと思っていたけど、あのマスターがそれを阻止してくれたのよ。おかげで私の元に帰ってきてくれたのよ。あははは、何もかもうまくいったわ。ホント、こんな素敵な生活は何年ぶりかしら・・・。だから・・・』 『だ、だから・・・・?』 『だから、帰ってこないで。二度と私たちの前に姿を見せないで』 『そ、そんな・・・・そんなひどい・・・・』 『ひどいのはあなた。私からあの人を奪ったあなたがひどいの!。・・・・もういいでしょ。いい加減、私にあの人を返してちょうだい』 そのとき、母の声の向こうから父の声が聞こえてきた。 『お〜い、母さん、お風呂に入るよ。用意をしてくれないかなぁ』 その声は、とても嬉しそうな声だった。父のあんなに楽しそうな声を聞いたのは、久しぶりだった。 『は〜い、今行きますぅ〜・・・・。どう?、とっても楽しそうでしょ?。本当に毎日が楽しいのよ。あの人は、会社も辞めていつも家にいるの。あぁ、生活は大丈夫よ。ちゃんと貯金があるから。二人分くらいはなんとかなるのよ。』 母の声は、本当に楽しそうだった。そして、ぞっとするほど艶めかしい声で言った。 『・・・あの人ったらねぇ、一人でお風呂も入れないのよ。私がぜ〜んぶ洗ってあげるの。どこもかしこも・・・・、あぁ、恥ずかしい・・・。ホント、まるで子供みたい・・・・。毎日が楽しいの・・・。あの頃に・・・・結婚したあの頃に・・・・ううん、それ以上に、今は楽しいのよ・・・・うふふふふ』 それは、まるで若い女の子が惚気るようなしゃべり方だったのだ。が、突然、声色が変わった。 『そういうことだから、電話もしてこないでちょうだい。もう二度と邪魔をしないで!、二度と・・・二度と私たちの・・・・邪魔をしないで!』 耳に叫び声が響いていた。そして電話は切れたのだった・・・・。 「私は生まれてこないほうがよかったんでしょうか。ううん、生まれてきちゃいけなかったのよ、きっと・・・・私が生まれたことが間違いだったのよ・・・・くっ、う、うぅぅぅ・・・・私さえ生まれてこなければ、父も母も幸せだったのよ。私さえいなければ、二人ともあんなにはならなかったぁぁぁぁぁ・・・・・」 彼女は、カウンターに突っ伏して泣き出してしまったのだった。 「そ、そんなことないわよ。生まれてこなきゃよかったなんて・・・そんなこと言っちゃダメよ。ねぇ、マスター」 「よく聞いてください」 マスターの低くよく通る声が響いた。彼女は、涙でぐちょぐちょになった顔をゆっくりとあげた。 「この世に生まれた以上、生まれていけない命はありません。生まれていけない命ならば、この世に生まれてきません。ですから、あなたは生まれてきていけなかった・・・・などと考えてはいけません」 「それって・・・・生まれてきてよかったって・・・そういうことですか?」 「そうです。あなたはこの世に生まれてきてよかったのです」 「でも、父を・・・・母を・・・・壊してしまった・・・・。私のせいで・・・・」 「あなたのせいではありません。あなたのご両親は、ご自分の意志で壊れたのですから」 「自分の意志で?」 「お母様もそうおっしゃったでしょ。あなたのお父様は、自分で望んで楽しい世界へ入って行ったのだ、と」 「は・・・はい・・・。でも・・・・父はそうかも知れません、でも母は?」 「お母様に至っては、壊れていませんよ。日常生活もおくれているようですし。あなたにお父様を奪われることが怖いだけです」 「父を奪われること・・・・が?」 「そう、あなたが家にいたときのように、いつもいつもお父様の心があなたに向いている・・・それが耐えられないだけです。それ以外は、至って正常ですよ」 「そ、そうなのかな・・・・」 「だからこそ、二度と帰ってくることのないように、とあなたに頼んでいるのでしょう」 「はぁ・・・そ、そうですよね・・・・」 「私の言葉が信じられないのなら、あなたが家に帰ってみればいい・・・・。それだけです」 「ちょっと、マスターそれは冷たいんじゃないの?」 「いいえ、冷たくありません。確信が持てないのなら、確かめるしかないでしょう」 「ま、まあ・・・・そう言われればそうかもしれないけど・・・・・」 気まずい空気が流れた。店の中は静まり返っている。 「私・・・・生まれてきてよかったんですよね・・・・」 「そうです。先ほどから、そういっているでしょ。あなたは、生まれてきてもよかったのですよ。この世に生まれてきた命で、生まれてきてはいけないという命は一つもないのです。ただ・・・・」 「ただ?」 「成長する過程において、欲望によって生き方を誤る場合がある、それだけです。それは生まれてきてはいけなかった、という理由にはなりません」 「あっ・・・・・そういうことか・・・・。生まれてきていいか悪いか、という問題ではなくて、生き方の問題ですね」 「そういうことですよ、チーフさん。ですから、あなたが生まれてきてよかった、と喜ばれる生き方をすればいいのです」 「そういうことよ、だから元気出しなさい!。あなたと出会えてよかった、って言ってくれる男を見つければいいのよ」 私はわざとおどけて言った。マスターはにこやかな目で私を見た。 「その通りですね」 「はい、わかりました・・・・。私、そういう人になるよう、生きていきます」 「それでいいのです。それにね・・・・」 「それに?」 「それに、あなたのご両親は、大変深い愛情で結ばれているのですよ。あなたのご両親のような愛の形があっても、いいんじゃないでしょうか」 「あれって・・・・愛の形なんですか?」 「そうですよ。それも一つの愛の形でしょう。なぜなら、ご本人たちが喜んでいるのですから。そうした愛の形があっていいじゃないですか。誰にも迷惑は掛けていないでしょ」 「まあ、確かにそうよねぇ・・・・でも、なんだか・・・・複雑よねぇ。私には・・・・理解できないかも・・・。ううん、違うな、私にはまねできないかも・・・・・、あ、ゴメン、きつかったかな・・・」 「いいんです、チーフ。私にも理解できないですから・・・・」 「あなたのお母様は、お父様が大好きだったのですよ。あなたが生まれて、お父様の気持ちがあなたに集中してしまったことに寂しさを覚えたのでしょう。どうしようもない寂しさを・・・・。やっと、お母様の望みが叶ったのです。そっとしておいてあげましょう。あなたもつらいかも知れませんが・・・・」 そのときであった。変な声が聞こえた来たのだ。この声には聞き覚えがある・・・。 「うわ〜ん、泣けるやないかぁ・・・・。ええ話やなぁ〜。うぉぉぉん。ズリズリ・・・、あ、鼻が出てもうたわ。マスター、ティッシュ〜」 「な、なに?。だ、誰?、そんなとこに・・・・いったいいつから?。あ、あんたは!」 「久しぶりやねぇ・・・いつからって、あんたらが入ってきた時からいてるがな。気付いてなかったん?」 「あ、あなたは・・・・き、気付いてなかった・・・」 「そんなに存在感ないんかなぁ・・・。まあええわ」 「いいのか、それで」 「それにしても、ええ話聞かせてもろうて、ありがとう。もう、泣けてきてしゃーないわ」 男は豪快に鼻をかんだ。 「いい話って・・・あんたちゃんと聞いていたの?。この子は苦しんでいたんだよ」 「いやぁ〜、いい話やないの〜。そういう愛の形もあるんやねぇ。うんうん。大人の愛やねぇ・・・・」 「何、わかったようなことを・・・・」 私は呆れかえって言葉が出なかった。彼女に至っては、眼が点になっている。 「あの、チーフ、この人って・・・・」 「あぁ、この人がこの店を私に教えてくれたのよ。まあ、そういう意味では恩人・・・かな」 「えへへへ。恩人恩人。ほな、これからデートしましょか?」 「あの、初めまして。私、チーフにこの店を教えてもらったんで、私にとっても恩人ですね」 「いやあ〜、かわいいなぁ〜。惚れてまうがな〜、ほな、よその店で飲みなおそか」 「なんて失礼なヤツ。マスター、こんな人、店に入れちゃアだめですよ」 「いいんですか?、そんなこと言って。あなたの恩人だし、いろいろと教えてくれた人でしょ」 「あ、まあ、そうだけど・・・・」 「さぁ、どうぞ、皆さんでどこか飲みに行かれたどうですか?。3人でカラオケもいいんじゃないですか?」 「ええこと言うなぁ、マスタ〜。あんた、ホンマええ人やねぇ〜」 「楽しそう!。チーフ、私も行きたいです」 「あ、あんたねぇ・・・・・・あ、うん、そうか、わかった。それもいいかもね。じゃあ、カラオケでも行くか」 「はい、行きましょ」 「ほな、いこか〜」 「ほな、ここの支払い、お願いね〜」 「えぇぇぇ、そりゃ・・・・ま、ええわ・・・・」 私たちは大笑いしていた。でも、彼女の眼には涙が・・・・。私にはそれが見えたから、だから・・・・。この関西弁の男なら、気を紛らわしてくれるかも知れない。そう思ったから。 私は、マスターを見てうなずいたのだった・・・・。 魍魎の家 後日譚・・・完 |